2013年1月11日金曜日

こんにちは。理系担当のIです。
1月もそろそろ半ばにさしかかる今日この頃、皆さんはいかにお過ごしでしょうか。
私はというと、いまちょうど修論の追い込みの時期の真っただ中で、まさに寝る暇もないといった状況でありますが、なかには、すでに卒論、修論を提出し終えてほっと一息、という方もいらっしゃるようです(人文は、去年のうちにすでに提出期限を終えたと聞きました)。
 個人的には、もっとも懸案となることを去年のうちに片づけて年明けを迎えることができるというのは、精神衛生上、実にいいことだと思います。私も正月の3が日だけは休もうと決めていたのですが、休んでいる間にさえ修論が間に合わない夢を見たり、データ解析が山のようにたまって泣きそうになりながらパソコンに向かう夢を見たりと、まったく気の休まらない正月でありました。
 

 さて、当然ではありますが、一応、卒論も修論も学術論文の体ですので、序論においてはしっかりとその研究をやる意義を述べないといけません。
 農学や医学などの実学的な分野であれば、「その成果を使って新しい技術や方法を確立し、人間のために役立てる」という大前提がありますので、意義という意味では一本柱が通っているように思います。
 ただ残念ながら、私のテーマは今のところあまり実学的でないところにあり、「それを明らかにしたからなんなの?」と言われてしまうかもしれません。これは私に限らず理学的研究をやっている人共通の懸案かもしれませんが。
 これについての小話で、電気を初めて見た人々が「これがなんの役に立つのだ」と言って、その価値を全く理解できなかったというものがあります。ところが結果として、電気は我々の生活になくてはならない重要なものになっています。
 私がこうして冬でも暖かい図書館の中で、日が落ちても蛍光灯で明るい中で、ブログに記事を書くことも、電気がなければできなかったのだと考えると、人々に理解されずとも電気を研究し続けた人々は偉大だなぁと思ってしまいます。
 なので、私の研究も、今は役に立たないけれど、そのうち何かの役に立つはず!…と思いたいところです。
 勿論そのためには、研究の「面白さ」を伝える努力が必要で、それが認められないことには、理学は発展しないのかもしれません。結局のところ、理学の根底にあるものの一つは「好奇心」ではないかと私は思っています。
 面白いから研究してみた、そしたらこんな風に利用できるようになった、すごい!便利!最高!
 そういうものが、いまの私たちの生活を作っているのだろうと思います。
 はじめに述べた論文の「意義」とは、(すべてではないでしょうが)こういうところにつながってくるのかなぁ、という気がします。
 序論が面倒くさいという人もいるかもしれませんが(事実、私は学部時代にはそう思っていました)、そういう人も、これから理学的な研究をやろうと思っている学生の方も、ぜひ、自分のテーマの「面白さ」を見つけて、それを周りの人に伝えられるようになったらいいなと思います。

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